お客様の声・風の声 2004年7月
2004/07/29 SORAとコハマ
2004/07/24 悲しい夏、深い哀しみ
2004/07/18 母のこと、いろいろ思い出そうと・・・
2004/07/18 母子物語・・・2
2004/07/18 母子物語・・・1
2004/07/18 明るさに秘めた悲しみ・・・2
2004/07/18 明るさに秘めた悲しみ・・・1
2004/07/17 ホルスト『惑星』より木星・・・2
2004/07/15 ホルスト『惑星』より木星・・・1
2004/07/14 グリ危篤
2004/07/14 松輪の祭り
2004/07/14 白いバラ、青いデルフィニュウム・・・2
2004/07/14 白いバラ、青いデルフィニュウム・・・1
2004/07/04 小太朗のお母さん
2004年7月29日
SORAとコハマ
SORAはもうすぐ1歳になる。いたって健康で、つやつやして柔らかい毛並みが気持ちよく素晴らしい。小太朗親子にすっかり席巻され、お株を奪われた感じで一時影が薄かったが、このところまた自己主張しだし、コハマとも仲良くやっている。
SORAとコハマは、年も近いのではと思われるが、最近一緒に走り廻り遊ぶようになった。でも、すべてが対照的だ。見た目もアメショー系とシャム系で対照的だが、雰囲気や性格もSORAは、山猫系で、引っ込み思案で甘えん坊。コハマは、ライオン系で、人懐っこく、しっかりもので、ずうずうしい。その2匹は、今がシュン、若さを謳歌して凄いパワーで部屋中を走り回る。
正に台風のごとく、夜中など寝ている人のお腹を蹴って飛び回る。その様子は、なんだか女子バレーの新星、大山加奈と栗原恵を彷彿とさせる。パワフル加奈とプリンセスメグである。青春そのものといった生命力とエネルギーに満ち溢れている。だが、そこはやはり猫、勝手気ままに、食べて寝て、遊ぶ、シンプルそのもの羨ましい限り。
その2匹に小太朗も加わり、必死に走り廻るのだが、先週末お腹に寄生虫を発見し駆除したが、ちょっと痩せ、まだ少し元気が無い。食欲が戻ってきたので、大丈夫だと思うが、少々心配だ。
グリは、最近食欲旺盛、お腹を出して仰向けに寝たり、調子が良さそうだ。あんずは、時々、何か不満気に鳴く。キャットフードではなく、何か魚を食べたいのだ。そして突然人の膝を狙って座り、甘え出す。私の膝は、いつも3匹の雌猫に狙われ、ソファーに座ったとたん、どれかが乗ってくるのだ。
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2004年7月24日
悲しい夏、深い哀しみ
私の周りでは、夏に亡くなる方が多い。と、いうより夏に亡くなった方が強烈に印象に残っているのかもしれないが。特に7月は自分の誕生月のせいか、人の死が気になる。
22日にお母様の散骨なさったIさんにとって、その死を認めることは、何ものにも変えがたい哀しみがあった。四回目の命日が近づいたその日、遺言どおりにご遺骨を海に還す決心をしても、なかなか手から離すことができなかった。
お別れの瞬間、それまで耐えていた深い哀しみが一度に溢れ出て、とても涙を止めることなどできなかった。
次々とご親戚の方がご遺骨を海に還し、やっと彼女もご遺骨を手放し、お母様が好きだったというトルコききょうとキリン一番しぼりを海に捧げた。立っていることもやっとだった彼女を婚約者の方が、椅子に座らせてもしばらく放心状態が続いていた。
「泣きたい時は、思い切り泣いていいんですよ」と言うと、しばらくして突然、彼女は、体全身で激しく泣き出してしまった。そしてその悲しい思いは、彼女を駆り立てお母さんの側に行ってしまいという思いに捕らわれ、彼に抱きかかえられなかったら、そのまま海に飛び込んでしまいそうだった。
その日は合同散骨で、他にもご参加のご家族がいらしたが、みんな彼女をそっとして彼に任せ、上部デッキに上がっていった。
私もしばらくは彼に任せ、見守っていたが、「千の風になって」の詩が彼女の慰めになればと思い、側で読んで差し上げた。そして少しずつ、お母様のことをお話しているうちに、次第に彼女は落ち着きを取り戻していった。
お母様の死後、彼女はメンタルな治療を受けているそうだし、優しい彼がいつも側にいるので安心だと思うが、充分に悲しみ、それを乗り越え、幸せになってほしいと思う。
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2004年7月18日
母のこと、いろいろ思い出そうと・・・
お母さまの散骨をされた、お嬢さんのTさんからお便りを頂きました。承諾を得、掲載します。
7月10日に母の散骨をして頂いたTです。本日、海洋散骨証明書が届きました。本当にありがとうございました。
母もやっと自由になれたと思います。のんびり好きなことしてほしいです。
7月10日には、母のこといろいろ思い出そうと、思っていたのですが、小学校一年生の娘と、二才半の息子(最近やっと、おっぱいやめたんですよ)の相手で、母のことを考える、思い出すことが出来ませんでした・・・
夜、2人が寝た後、いろいろ思い出しました。私は一人っ子なので母が、姉、母親、そんな感じでした。でも、私が小さい時から働いていたので、べったり甘えた記憶はありません。いつも、ひとりで母の帰りを待っていました。
母と父が亡くなり、ひとりぼっちになってしまいましたが、私の子供達、主人のために、これからがんばっていこうと思います。主人の両親は元気なので、私の親にできなかったことを、させて頂けたらいいなと思います。
本当に、いろいろお世話になりました。ありがとうございました。
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2004年7月18日
母子物語・・・2
獣医さんでは、夕方ご飯を食べたばかりなので、次の日の昼に避妊手術をすることになった。そして次の日は、午後休診なので、退院は翌々日ということになった。
そして退院の日、朝9時半頃引き取りに行く。手術はうまく行き、そのとき発見したかまれ傷らしきものも、問題はないらしかった。しかしトイレを我慢しているという。猫は犬と違い、本当に落ち着けないと何時間でも我慢してしまうのがいる。
グリもそうだ。前にニューヨークから東京へ来る時など、飛行機に乗っている14時間位はもちろん、その前後8時間位、車の移動や、飛行場での待ち時間など、22時間位も我慢していた。しかし、小太朗のお母さんは、帰りの車の中で、少し気も緩んだのか、オシッコをしてしまった。
さて、これからが問題だ、どうしたものだろう。手術後、1日2日はゆっくり休ませてやりたい。家に連れて帰り、他の猫とどうなるか。
玄関を入り、小太朗のお母さんの声がしたとたん、SORAとあんずは押入れに引きこもってしまった。グリは、かろうじて知らん顔。そして母子の対面、小太朗は、お母さんを見て、尻尾を最大限に膨らませ、背中も丸くして逆毛はとんがり、目一杯つっぱっている。突然、知らない猫が現れて、防御の姿勢をとっているのだ。お母さんは、落ち着いている。目に入る範囲を探検し始めたが、まだ他の猫の存在に気がついていない。でも怪しんではいる。しかし、とりあえず、私に甘え、ソファで寛ぐ。
小太朗は相変わらず、フーフー言いながらつっぱっているが、彼女はそれを優しく見ている。息子だと分って居るのかも知れない。その日は、夜になってもSORAとあんずは引きこもりストライキを続け、グリは、少し食欲を無くし、小太朗は彼女の存在に慣れ、寄って行っては、逆に怒られたりしていた。そして、お母さんは私たちのベッドの真ん中で、女王さまのようにゆったりと一晩を過ごした。
3日目、小太朗とお母さんは、いつの間にか、母子であることを認識しあったのか、仲良く寝て、遊んでいる。SORAもあんずも出てきたが、あんずはマイペース、SORAはやはりまだナーバスで落ち着かない。そしてせっかく遊び相手だった小太朗をお母さんに取られ、少し退屈、そして寂しそうで可哀想だ。早く、馴染んで一緒に遊べると良いのだが。
でも、とりあえず一件落着。小太朗のお母さんの名は、捨てられていた地名からコハマになった。そして顔や体の汚れが少しずつきれいになった。
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2004年7月18日
母子物語・・・1
小太朗のお母さんは、祭りが終わってもすぐには見つからなかった。そっと運んでいるご飯は、いつもきれいに無くなっていたが、他の猫が食べているようだった。
そんな朝、犬の散歩から帰ってきた船長が、お母さんらしき猫を見かけたという。そしてその夕方、6時ごろ、ご飯を持って荷揚場に行く。この時間が一番港は人気が無い。一斉に夕ご飯の時間なのだ。
前にいつもいた場所を探し、呼ぶが出てこない。岸壁には、丁度隣の家の漁船が停まっていて、とっさにまずいなと思ったが、幸い誰もいなかった。あまり猫好きでない隣の人に、ご飯をやっているところを見られたくなかったのだ。
犬を連れて船長が船の側に行き、私を呼ぶ。船の上にいると言うのだ。とっさには信じられなかったが、行って見ると本当に小太朗のお母さんだった。何と言う、皮肉、何と言う偶然、隣の家の船で、鯖釣りのエサのシコイワシを盗み食いしているなんて。エサを見せ、呼ぶとしばらく躊躇していたが、船から岸へ飛び移ってきた。さらに誘導していつもの場所まで行く。
その間に船長は、犬を連れて帰り、車でバスケットを持ってきた。お母さんは、半分ほどご飯を食べ、止めたので撫でてあげ、膝に乗せるとおとなしく抱かれている。人の愛情に飢えているようだ。私は、そのままバスケットの所へ行き、彼女を中に入れ、蓋をしっかり閉めた。
彼女はびっくりして、猛烈に暴れだしたが仕方ない、しばらくの辛抱である。獣医さんには、連絡してあり、いつでも連れて行って良いということだったので、真っ直ぐ車で向かう。途中しばらく鳴いていたが、だんだんおとなしくなっていった。
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2004年7月18日
明るさに秘めた悲しみ・・・2
Tさんからメールを頂きました。承諾を得、掲載します。
7月11日にYの散骨をして頂いた、姉のTです。
全く初めての経験でしたが、そちらのホームページを見て想像していたとおりのものになりました。
良くない意味の「宗教臭さ」(必要なときもありますが)が無く、船長ご夫妻はこれも想像どおりの自然体の方々で、参加者にとっては、忘れられない1日になりました。
通常の葬儀等では、いわゆる専門家の業者に形式を重んじられ、当人たちの気持ちは二の次になるのが多いと聞きます。特に田舎では、遺族は悲しみの上にさらに怒りを重ねなければならない葬儀が多いよいです。
しかし、オンディーヌ号の上での散骨は、そういった点が全くなく、自由に故人との別れができました。すこぶる健康体だった弟が、心筋梗塞であっけなく去ってしまい、仲の良かった私には、なかなか事実を受け入れることができずに涙にくれていましたが、オンディーヌ号の上で、最後の大粒の涙を海に流すことができました。
その後の食事の場所やタクシーの予約までして下さってありがとうございました。「海」(風がご紹介したレストラン)では、ご馳走を頂くつもりでしたが、酔い止めの薬のせいか、余り食欲が無く、結局皆で昼の定食にしてしまいました。でも、お刺身おいしかったですよ。
帰りの電車の中で、物凄い雷と雨に会い、海の上でなくて良かったと言い合いました。そちらは大丈夫でしたか?弟の家ではクーンラグキャット(?)という大きな猫を3匹も飼っています。そちらの猫ちゃんは具合悪そうですが、どうですか?時々、日誌を読ませていただきます。
それでは、散漫な文章になってしまいましたが、お礼まで。
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2004年7月18日
明るさに秘めた悲しみ・・・1
56歳のTさんが、心筋梗塞で突然亡くなられたのは、電話を貰った丁度1ヶ月前だった。Tさんのお宅をお訪ねすると、とても綺麗でゴージャスな猫ちゃんとにこやかな奥様が出迎えてくれた。
そして散骨当日、電話でお話したTさんのお姉さまとお会いした。やはり明るい感じのとても素敵な方で、亡くなった彼のためにエリック・クラプトンの『天国の涙』のCDを用意していらした。
お2人とも人前で明るくしていらっしゃるが、どんなに悲しく辛いことだろう。せめて船の上で、心を解放して、気の済むまでお別れをしてほしいと思った。
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2004年7月17日
ホルスト『惑星』より木星・・・2
散骨されたMさんのお嬢さんから、お手紙を頂きました。承諾を得、掲載します。
前略
六月六日に散骨致しました。お世話になりました。お礼が遅くなって申し訳有りません。
父のHMと母は、献体の申し込みをしておりました。ところが父は交通事故に遭い、残念ながら、交通事故は献体の対象にならない、ということで家族だけで見送りました。(火葬)
遺言には散骨とは、ありませんでしたが、一番父らしいかな、と家族で納得致しました。
健康で、二人で草木を育てたり、何ヵ月に一度は温泉に出かけたり、金婚式も済み、旅先で、二人で旅行できていいね、と言われた、と言っていた矢先でした。
母のショックも大きかったですが、少しずつ、少しずつ元気にはなっています。でも涙が涸れることはありませんね。
散骨前に父の遺骨に、そっと口づけした母の姿が印象的です。皆様の暖かい、御心遣いが、とても嬉しく、良い時間を過ごすことができました。
母は七回忌も来ようね、と言っていました。そして、自分の時の音楽は「バラ色の人生」をかけてもらおうかな、ですって。
本当に自然な別れだったなあと思っています。ありがとうございました。皆様によろしくお伝え下さいませ。
草々
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2004年7月15日
ホルスト『惑星』より木星・・・1
私は、クラッシクに詳しい方ではない。他のジャンルに関してもそうであり、最近は今流行の曲など全然分らなくなってしまった。
海洋葬のときに、故人の思い出として、音楽と花と飲み物は必ずお聞きしているのだが、音楽は本当に多岐にわたりリクエストがある。それだけに故人を知る手がかりにもなるのだが。
6月に散骨なさったMさんは、ホルストの『惑星』の中の曲「木星」だった。私の場合、曲とタイトルが一致していなかったり、よく聞いていてもタイトルを知らないものが多い。この曲も意識して聞いたことがなかったが、いろいろな画面でバックによく使われているもので、壮大な宇宙がよく現れている。
そのCDは幸いうちにもあり、早速じっくり聞いてみた。異空間に連れって行ってくれるようなドラマッチックで雄大な世界が広がり、聞いていて楽しい。だが、ところどころに華々しいファンファーレが入り、式のときに流すのは少し難しい気がした。
今までにも、ベートーベンの第九や第五、ムードコーラスなど難しいものはあったが、短い曲はそれも故人の思い出なので、そのまま流し、長いものはそのさわりの部分を選んで、編集したりした。
しかし、今回は、時間とフレーズ、編集するのに随分苦労してしまった。一番有名な「テーマ」の部分を中心に、できるだけ長く、自然につなげるには・・・。
ひとつの曲をこんなに集中して、何十回も聞いたのは初めてかもしれない。お蔭で、しばらくは「テーマ」のフレーズが頭から離れなくなってしまった。
そして、MDへの編集、普段やりつけないことだけに、中々うまく行かず、不自然なつながりを直しては、録音し直し、半日かかってなんとか、完璧ではないが完成した。
散骨の日、Mさんとお母様、お姉様、その旦那様、4人で行われた海洋葬は、アットホームでシンプルだが、とても気持ちの良いものだった。それは、その曲を好きだったという亡きお父様の人柄も反映され、とても素敵な優しくおっとりとしたお母様を始め、その家族の醸し出す雰囲気がなにかほんわりとしていて良い感じだったからだ。
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2004年7月14日
グリ危篤
グリの病気が分ってから半年、体重は2.5キロ位落ちて(7.5キロ)、顔がほっそりして、ハーネスもすっかりゆるくなってしまった。週に1回の血液検査を続けているが、ここの所、血糖値が全然下がらず、インスリンの量を増やしたり、減らしたり、2日おき位に獣医さんに通うようになっていた。
食欲も落ち、今まで食べていたキャットフードもあまり、食べなくなった。スーパーに行って手当り次第、おいそうなのを探して買って来る。幼猫用や鰹だし入りなどのを多少好み、主に汁気だけをなめる。どれも少ししか食べず、途方にくれていたが,血糖値は下がり、インスリンの量は多めにして落ち着いた。
そして先週の金曜日、丁度12時を廻った頃、突然、グリが玄関で変な声を出し始めた。何か吐きたいような、苦しそうな声である。側で見ているが、何も吐かず、失禁してしまった。最初に尿、そして下痢便。
あわてて獣医さんに電話し、どうしたらよいか聞く。グリは、次第にひきつけ状になり、歯を食いしばる。状況を伝えているうちに、もしかして、「低血糖症?」と思いつき、先生に聞くと、たぶんそうだ、ということになり、急いで砂糖水を作り飲ませる。
グリはもう完全に弱って、今にも死にそうである。先生にも往診して貰うことになり、待つ間、砂糖水を飲ませ、ずっと側で見守る。砂糖水のせいか、意識ははっきりしてきて、グリと呼ぶと、いつものように尻尾で返事をする。船長が呼んだ時より、私が呼んだほうが、大きく尻尾をふる。
やっと先生が来て、診てもらうが、やはり低血糖ということで、さらにどんどん砂糖水をやるように言われる。その間、小太朗が、チョコチョコ出てきて、先生の往診の道具を悪戯する。先生はグリに下痢止めの注射を打ち、インスリンの量を減らすことにして帰る。
その3日位前にいよいよ末期かという話や最後は安楽死かなど話していたのだ。しかし、先生が帰って30分もしないうちに、頭を動かし、立ち上がることもできた。さらにごはんも少しづつ食べだした。
そして今日、かなり食欲も戻ってきた。でも、やはり食べさせるものが難しいのに変わりなく、鯵の干物や、鮭の焼いた物、鯖、鮪の煮たの、幼猫用フード、いろいろなものを用意して、台所は、お皿がずらっと並んでいる。
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2004年7月14日
松輪の祭り
ここへ越して来て、初めての村祭りだ。最近は2年に一度ということで、去年はなかった。
祭りの2ヶ月位前から隣の家では、お囃子の稽古に余念がない。おじいちゃんが、孫に特訓しているのだ。毎晩休みなく続く稽古に、お囃子は嫌いではないが、少々耳にたこが出来ていた。
祭りの3日位前からは、港の水揚場でリハーサルが始まり、小太朗のお母さんに餌をやりに行っても、会えないでいた。
そして本番、この辺は、神輿ではなく、大小の山車が出る。海と山、漁業と農業の男衆が一緒になって、揃いの浴衣にハッピ、そして白くて長いダボシャツで集う。港の駐車場に2本の旗が立ち、車は通行止めになる。
さて、隣のダイちゃんの晴れ舞台だ。ダイちゃんは、飾り付けられた小さい方の山車に乗り、太鼓を叩いている。白いダボシャツ姿で、少々ハニカミながら、でも一生懸命叩いて、周りにはやはり笛の子供たちがいる。その山車は、狭い道を通り一軒一軒廻って行くのだ。
本番は、やはりいい、思わずジーンとしてしまう。本当は、私もお祭り好きの江戸っ子、神田の生まれなのだ。子供の頃、山車に乗りたくて、太鼓も叩きたかったが、まだ小さいからダメと言われて、それっきりだった。
祭りも終わり、やっと静かになったその晩、真夜中、寝付いた頃に、外の祭り囃子と大騒ぎに起こされた。ここでは、夜中にも一騒ぎするらしい。次の日は、早朝から仕事、あー、そっと寝かせて、前の日も寝不足なんだから。
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2004年7月14日
白いバラ、青いデルフィニュウム・・・2
そして当日。若干のうねりはあれど、天気も海も申し分ない。ただ、台風の後だけに水が濁っていたのが残念だったが。
白いバラも丁度見ごろの咲具合となり、茎からはずし籠に入れる。白と青だけでは、少し寂しいかもしれないと思い、ピンクを本の少し添えることにしたが、濃いピンクではきつく、淡い淡いピンクを探して用意したが、結果的のは、ブルーのグラデーションだけのほうが素敵だった。
ご参加の方は、皆さん早めにお出でになり、集合と共に出港となった。Kさんはご遺影をお持ちになったので、船のキャビン、花とご遺骨の前に置く。
Kさんのお子さんたちは、皆男の子で、白いシャツに紺のズボン、元気に船内を走り廻っているが、お行儀が良く、船酔いしないのが何よりだった。
今回は、Kさんの奥様が編集なさった曲をお流しし、打ち合わせの式次第の下、Kさんが司会を務め、式が始まった。まず喪主の方のご挨拶、そして近しい方から、ご家族毎に後部デッキに下り、ご遺骨を海に還された。
献杯は白ワインでということで、ガラスは無理だが、やはりワイングラスを揃えたくて前日、東急ハンズにプラスチック製の物を買いに行ってきた。献杯の辞は、故人のご兄弟の方から賜り、ボトルのワインも海へ注ぐ。そして黙祷。
思いの籠った長い長い黙祷だった。つつがなく式は進み、船は散骨海域を二回大きく廻った。青と白の花が静かに海面を漂い、人々はそれぞれの思いに浸り、涙する。やがて式も閉会となり、お別れの鐘が三回鳴らされる。
日曜日の葉山沖はもう夏盛り、たくさんの大小のヨットが、レースに参加し、セールに風をはらませ、涼しげに走っている。しかし、乗っている人たちはさぞ熱くなっていることだろう。レース艇を見ながら、マリーナに戻る。この日、故人の希望の富士山ときれいな水は、叶わなかったが、今年の6月初め、そこに大きな富士山が絵のように美しく現れ、水もきれいに澄んでいた日のことを私は思い出していた。
Kさんたちは、その後葉山マリーナのチャペルの部屋で会食し、お帰りになったのだが、夕方喪主であるお父様から、お電話を戴いた。皆、とても式に満足していたこと、お食事がおいしく、食べきれないほど多くて持って帰ったことなど、とても喜んでいらした。そしてご丁寧に、次の日にも船長にお礼の電話をくださった。
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2004年7月14日
白いバラ、青いデルフィニュウム・・・1
散骨、海洋葬は、新しい葬送の儀であるから、決まった形があるわけではない。それぞれの家族のイメージで、それぞれの家族らしく、故人の人柄や思い出を反映できれば良いと思う。だから私たちは、どのようにしたいかを聞いて、その方のなさりたい散骨のお手伝いをするだけである。
ある人は、何もしないのが良いと言い、黙祷すらためらい、花も音楽も要らないと言う。特にイメージを持たず、私たちのやり方でという方の場合は、故人の思い出の音楽を掛け、好きだった花を揃え、好みのお酒などを用意する。シンプルでアットホームに、ある意味ではラフである。そして散骨を希望する方たちは形式にとらわれず、服装もアロハの人もいれば、短パンだったり、いたってアウトドアスタイルである。一応、マリーナという場所柄喪服だけは遠慮して頂いている。
しかし、考え方やライフスタイルも本当に百人百様で、ラフなのが嫌だったり、きちんとしたのが好きな人も一般的には多い。私の91歳の伯父も大正生まれの自由人であるが、おしゃれで、どこへいくときもスーツで、ネクタイは欠かさない。病院や近所に買い物に行く時もである。
さて、今回散骨なさったKさんの場合は、今までにないきちんとした海洋葬になった。前に僧侶の方がお乗りになったことがあったが、それとは違う厳粛さがあった。
まず、乗船の人数も多かったので、「オンディーヌ5」では出来ず、大型の船を借りることになった。それでもご家族とご親戚だけの集まりで、Kさんにとっては、ごく内輪での式ということになる。ただ、親戚に社会的地位のある方がいらして、Kさんはかなり気を使っておいでだった。
そして、マリーナも葉山マリーナを使わせて頂き、散骨後そこのレストランで会食をなさることになった。日ごろ忙しいKさんに代わってKさんの奥様と喪主であるお父様が事前にマリーナを訪れ、下見をし、食事のメニューなども含め綿密な打ち合わせをしてお帰りになった。
さらに案内状も作ることになり、頼まれたのだが、散骨の場合、既製の物がないだけに10枚以下の制作では、1枚あたりの単価がとても高いものになり、申し訳ないことになってしまった。
それからの2週間、Kさんの思い描く海洋葬、それを成功させることで私は頭が一杯だった。今年は、台風の上陸が例年より早く、花の予約のこともあり、天気がとにかく一番心配だった。ご希望の白いバラは、意外に難しい。前の日に行っても花屋さんにないこともあるし、数や咲き具合も丁度良いとは限らない。予約して、2日前に受け取ることになったが、キャンセルはその前の日までで、とても天気は読めず、無駄になってしまうこともある。1年ほど前には、カサブランカを予約して、荒天で無駄にしたことがあった。
そして式次第、用意するもののリスト、船が違うので持って行く物も多い。とにかく完璧を目指したい。散骨前日、どうやら台風の影響も過ぎたようで、予定どおりできそうだった。前の日に受け取った白い蕾のバラは1本1本水切りをして話しかける。丁度良く開いて、きれいなままでいてください。温度の高い部屋に移したり、冷房を入れたり、なんとか見ごろにしたい。そしてその晩夢をみた。最近は緊張して、前日に次の日の散骨の夢を良く見るのだ。そのご家族にとって1回限りの大事な海洋葬を絶対に成功させたいという思いが、その家族の気持ちと一緒になってしまい、夢で予行演習をしてしまうのだ。
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2004年7月4日
小太朗のお母さん
お祭りまであと1週間、お囃子の稽古も総仕上げという感じで、夜の漁港の荷揚場は賑やかである。
昨夜は、いつもより犬の散歩の時間が遅れ、懐中電灯を持って港へ行った。皆が稽古に熱中している建物の横で、思いがけなく小太朗のお母さんを発見、母猫は、まだ若く、SORA位かも知れない。
夢中で蛾を追いかけ、空中に1m以上飛び上がり、見事キャッチして遊んでいたが、稽古の合間の子どもたちに見つかり、追いかけられているのが心配だった。
倉庫代わりのコンテナの下の隙間にとりあえず、キャットフードを置いてその夜は帰ってきた。
そして、今日、仕事を終えて、夕暮れ、犬の散歩に港へ。まだ時間が早いので、お母さんには会えないと思い、エサは持って出なかった。釣り客たちも帰り始め、荷揚場には人気がない。
ふと荷台の下を見るとお母さんがいる。向こうも私たちを認め、寄ってきた。お腹が空いているのだ。最近運んでいるキャットフードは、どうも他の猫に食べられてしまっているらしい。
手ぶらで来たので、急いで犬を連れて帰り、彼女のために焼いておいた鯖を持って、港に引き返す。しかし、同じ場所に姿が見えず、舌を鳴らして呼ぶと近くからすぐ出てきた。
アルミホイルの上の半身の鯖は、あっという間に無くなり、お代わりにドライフードも食べる。そして全然警戒する様子もなく船長に抱かれ、私が身体を触っても怒らない。なんだかうれしい。彼女の空腹を満たせ、避妊手術を出来る見込みがあるから。また、しばらくして、仔猫を連れた彼女を見るのはもう嫌だ。
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